いろはと。

フラフラとなにも決めず流れに身を任せていきてます。そんな適当な生き方が好き。

目に見えない価値

目に見えない価値

 


目に見えていないもの。いや、視界にはいる。でもほとんど認識されないものたち。

例えば、ご飯を食べる時、箸使いますよね?

それはどんな箸ですか?木ですか?竹ですか?どんな形ですか?

すんなりと答えれる人はその箸に思いやりがあるのでしょう。

誰かからのプレゼントだったり、手作り、自分で作ったもの。

しかし、大半の人はすぐにはわからない。どんな箸でご飯食べてたっけって頭の中を駆け巡る。私たちは当たり前に使うものでも、実はあまりよく知らないモノが多いのだ。

見えているはずなのに認識できていない。見えていないモノたち。

 


この地球にはものや生命、いろんなモノに溢れている。全て認識するなんて不可能に近い。

でも、自分が使うモノだったり、近くにあるモノを知ろうとすることだけで、世界がきっとまた大きくなる。

 


 子供の頃よくお母さんに聞いた言葉「これなぁに?」「あれは?」何にも知らないから気になって聞いていた。知ること自体にワクワクしていた。そして大きくなるにつれ、モノの名前や扱い方をしっていく。これなんだろう。あれなんだろう。興味を持つがまぁいっかと遠ざけてしまう。知らなくても楽に生きていけてしまう。知ることが無駄という価値に変わっていっている。

 いつからだろう、知ることがめんどくさくなったのは。いつからだろう、興味あるものないものが分かれたのは。いつからだろう。。。

 


 少し、わたしの大工見習い時代のはなしをしよう。

わたしは高校を卒業して大工さんに弟子入りした。在来工法をやる工務店。社長がいて、監督、アドバイザー、設計士がいて、そして大工さんがいる。

初めての建築の現場。ノコギリなんて図工の授業くらいしか使ったことがなかった笑。

そんなわたしが大工見習いに。

 


 最初はひたすらに、何もさせてもらえない。見てるだけ。そして掃除。ひたすら掃除。

腰袋すら何もない。道具だってまだない。ただ、手にはホウキとちりとり。そしてひたすら親方の作業を見る毎日。

あの頃の1日はとっても長かった。しーんとした無言の空気のなか親方の作業の音だけがする。知らないことがいっぱいで、頭で分かってもできないことがいっぱいで。やりたいって思ってもやれないことがいっぱいで。

 

 日々はたち、少しづつ、道具は増えていった。親方からもらったり、先輩方から余ってるのもらったり、買ったり。道具の名前や使い方、直し方。「道具に使われるなよ。」そう言われたのをずっと覚えてる。大工道具はめちゃくちゃ種類がいっぱいある。どんな仕事をよくするのか。どれが使いやすいのか。いろいろ試しながらこれ!というものを探り探り集めていく。

 


 道具も少しだがもち、練習が始まる。仕事はまだ見るのが仕事だ。現場ででた胴縁(17x32の木材)の端材でノコギリをまっすぐ引く練習。2面に線を引いて、ノコを合わせて切っていく。まっすぐに切るだけなのに、線にそって切るだけなのにまっすぐ切れない。簡単なことなのにできない自分の未熟さ、大工さんの凄さを痛感する。この頃まだまだわたしは道具に使われていた。なれない尺貫法や、ノミが上手に研げず切れなかったり、毎日頭も体も疲れ切って、家に帰ってお風呂もご飯も食べず眠ってた。

 


 目の前のことに一生懸命だと、視野はギュッと狭くなる。子供の時のように知りたくって、興味がわく。これはどういう道具なのか、どう扱えばいいのか。見て使ってみて、頭と体で覚えていく。大工さんはみんな行動で説明してくれる。言葉では伝えれないから。でも、それが一番わかりやすい。基本作業中は無言。言葉では説明できないけど、行動が、説明してくれた。

 


 見ることの大事さ。どこまで見て感じとれ、考えれるか。今になってすごいわかる。見せてくれていたこと。見ていてくれていたこと。どんな手順でどんなやり方をして、何を考えて仕事をしているたのか。施主さんのことをどれだけ思っていたのか。技術だけではない心のあり方。目に見えない価値がたくさん詰まってた。

 


 道具が壊れても直し方知っていて、木の性質によって、使う場所や方向を考えていた。施主さんと棚の位置や、階段の一段の高さを現場でなん回も試しで作って確認したりしていた。ひとつひとつにすべてに意味があった。誰がどんなふうに使うのか。人にも木にも優しく。そして、その先の未来をも考える。そこにはたくさんの優しさが詰まってた。

 


 できない。わかんない。なんで?私はカンナを研いでいたときに挫折しそうになったことがある。なんで、上手に研げないのか。1時間、2時間とひたすら綺麗にしたい一心で研いでた。「もうやめろ。そんな心で研いだって研げない。」そう親方に言われてなんだか悔しくて。逆に意地になってしまう私。やってたら研げる。綺麗に研げないのはやり方の問題だ。いろんな感情が入り乱れる。最後には悔しくて泣きながら研いでた。私はあの時の自分に言いたい。そんな乱れた心では綺麗に研げるはずがない。なん時間も仕事終わりなのに研ぎに付き合ってくれてた親方。そんなことなんてなんも考えもせず、むしろ帰ればなんて強気だった私。あぁなんて未熟なんだと今思う。

 


 どれだけのものを見落としてきたのだろう。どれだけ見えてなかったんだろう。それを今一個一個拾ってみる。見えてなかったものが見えてきて、申し訳なく感じるけど、それ以上にとても幸せっだたことにも気づく。ありがとうってふと言葉がでる。ありがとう。ありがとうございます。って。

 


 目に見えない価値に目を向け、わたしも生み出す人に。

気付かれないようにこっそりと、当たり前の中に潜ませる。

 


全てには意味がある。